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石田三成の娘辰姫〜恩義を忘れなかった津軽家に残る三成の子孫

 今回は石田三成の三女辰姫を中心に、三成と津軽家の関係について紹介します。

辰姫津軽へ逃れる

 天正20年(1592)、辰姫は石田三成の三女として生まれました。そして、豊臣秀吉が死去した後の慶長3年(1598)頃に秀吉の正室北政所(高台院)の養女になっています。

 しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、父三成は敗れて処刑されることになります。辰姫は、その直後に兄重成と豊臣家中で同じ小姓仲間として親しくしていた津軽信建によって、重成とともに津軽へ逃されます。

石田三成と津軽家の関係

 なぜ津軽家は石田三成の子供たちを匿ったのでしょうか。そこには三成への深い恩義があったのです。

 戦国時代末期の津軽家当主である津軽為信は、元々奥州の南部家の家臣でした。しかし、津軽地方で独立し、秀吉の小田原征伐の際に、独立大名として秀吉に認めてもらおうと行動を起こします。当然、主君である南部家がこれを認めるわけがなく、惣無事令に津軽家が違反していると取次役の前田利家に訴えます。

 津軽家にとっては絶体絶命のピンチだったのですが、これを救ったのが三成でした。三成を通じて津軽家から秀吉へ鷹を送り、津軽家に処分が下らないように取り次いでくれたのです。結果、秀吉から本領を安堵され、正式に独立大名として認められることになりました。

 余談ですが、青森県では現在でも津軽地方の人(旧津軽藩領)と八戸の人(旧南部藩領)は仲が良くないという話があります。この津軽家の独立から始まった両家の遺恨が現在でも続いているということなのでしょうか。

 豊臣政権下でも三成は津軽家との橋渡し役をしており、為信の長男信建が元服した際には、烏帽子親を務めています。さらに信建を秀頼の小姓衆として推薦したのも三成でした。為信のような地方の武将を軽んじる風潮があった豊臣政権下において、三成は実直に対応していたといわれています。

辰姫のその後~三成の子孫は・・

 上記のようなことがあったため、津軽家は三成に深い恩義を感じており、危険をかえりみず三成の子供たちを匿う決心をしたと思われます。また、三成の子供たちを匿っただけでなく、なんと、、、

 匿っていた辰姫を2代藩主信枚の正室としたのです。これは当時の常識では考えられないことです。

 慶長15年(1610)頃、辰姫は北政所の養女という身分で、信枚に嫁いだといわれています。二人は仲睦まじく暮らしていたと伝わっていますが、慶長18年(1613)に家康の養女満天姫(家康の異父弟松平康元の娘)を信枚に降嫁させるという出来事が起きます。

 敵の大将であった三成の娘が正室で、家康の養女が側室というわけにはいきません。徳川家に遠慮して満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となったのです。

 この満天姫は再婚で、最初は福島正則の養子正之に嫁いで、男子を儲けていました。しかし正之は実子の忠勝に後を継がせようと考えた正則によって廃嫡された上、幽閉されて亡くなります。そして満天姫は子供(のちの弘前藩家老大道寺直秀)と共に徳川家に帰っていたのでした。そして、満天姫の再嫁先として津軽家が選ばれたのです。

 辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得ていた、飛び地領の上野国大舘に移されることになり、大舘御前と称されました。信枚は参勤交代の際には必ず大館村の辰姫の居館に立ち寄り、辰姫と過ごしたといわれています。

 その結果、辰姫は身ごもり、元和5年(1619)に信枚の長男平蔵(のちの信義)が誕生しました。

 平蔵は大舘で辰姫が養育し、無事に成長していきます。しかし、元和9年(1623)に辰姫は32歳の若さで亡くなってしまったのです。そして、幼い平蔵は弘前藩の江戸藩邸に引き取られることになりました。

 満天姫と信枚の間にも男児(のちの旗本津軽信英)が生まれていましたが、平蔵は信枚の世継ぎとして育てられることになります。平蔵は、後に信枚の後を継いで3代藩主津軽信義となったのです。

 御家の安泰を考えるなら、徳川家の血筋の信英を世継ぎにするのが普通でしょうが、徳川家の敵であった石田三成の孫に跡を継がせた信枚は、よほど辰姫を愛していたのでしょう。そして津軽家が三成から受けた恩義がそれほどまでに大きかったということではないでしょうか。

 また、辰姫と共に津軽に逃げてきた兄重成は杉山に改姓し、重成の長男吉成は信枚の娘を妻にもらい家老職となりました。杉山家は代々弘前藩重臣として幕末まで存続しています。

 辰姫の墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺にあります。

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