賤ケ岳の七本槍
加藤清正は豊臣秀吉と同じ尾張中村の出で母同士が従姉妹であったといわれ、幼い時から秀吉に仕えています。
長浜城主時代の秀吉に、清正の叔父が「台所にでも置いて飯を食わせてやってくれ」と頼みますが、秀吉は「賢そうだ」とまず5石を与え、程なく200石を与えたと(老人雑話)
子飼いの家臣の少ない秀吉にとっては貴重な縁戚であったことや清正自身の武功もあり若い時から順調に加増を重ねてきましたが、清正の名を一躍高めたのが賤ケ岳の戦いです。
柴田勝政隊との戦いで抜群の手柄を立て、福島正則らとともに賤ケ岳七本槍と称され一気に3000石を与えられたのです。
更に九州平定後の天正16年(1588)にはなんと肥後の北側半国25万石を与えられます(南半国は小西行長)。
清正と朝鮮出兵
文禄元年(1592)からの朝鮮出兵でも活躍します。破竹の勢いで次々と朝鮮勢を撃破して軍を進め、2王子を捕らえる戦功も立てるのです。
なお、明の大軍が援軍に来て戦いが拮抗してからは、講和派の小西行長らと反目し、日本に戻され謹慎となってしまいます。この時、行長や石田三成の工作があったともいわれ(少なくとも清正はそう信じていたでしょう)、清正は両者と反目していくのです。
その後、再征である慶長の役でも活躍しますが、拠点である蔚山城を築城中に明と朝鮮の大軍の猛攻に遭った「蔚山城の戦い」が起こります。
蔚山籠城図屏風(断片) – 福岡市立博物館所蔵(Wikipediaより引用)
城も未完成で兵糧・水も十分でないまま敵軍約5万人に包囲され、援軍到着前に城を落そうとする敵軍から猛攻を受けますが、清正はなんとか城を守り抜き、約10日後に援軍が到着して日本軍が勝利することができたのでした。
ちなみにこの時の籠城戦で食料に窮して食した軍馬が思わぬ美味であったことから、熊本に馬刺し文化が広まったといわれています。
清正と熊本城
帰国後はそれまでの確執から石田三成や小西行長と溝を深めたこともあって関ヶ原の戦いでは東軍につきます。関ヶ原自体には参陣しませんでしたが、肥後で西軍についた行長の留守を守る小西軍と戦って平定し、戦後小西領も含めて肥後一国52万石の太守となったのです。
その後、蔚山城での籠城戦などの経験を踏まえ、熊本城の本格的な築城に取り掛かります。120もの井戸を備え、清正得意の堅固な石垣を駆使した籠城戦に強い実戦的な造りで、また、大坂で一大事が起こった際に秀頼を迎えるために壮大な規模になったとも伝わります。
清正の死~毒饅頭伝説
関ヶ原後は領国経営に励むとともに豊臣氏と徳川家の間を仲介しようと奔走しますが、秀頼と家康の歴史的会見に立ち会った直後、肥後に帰る途中で急死してしまったのでした。時期的にあまりにも家康に都合がいい死であったため、当時から毒饅頭を食わされたとの噂が巷に広がりました。
清正死後は子の忠広が跡を継ぎますが、清正一代で起こった急造の家であるため家臣の内紛が絶えず、加藤家は改易となってしまいます。
忠広は堪忍料として1万石を与えられ出羽庄内に配流されますが、自由な暮らしだったようで、同所で子孫も続いているそうです。
清正は土木の神様
清正はバリバリの武闘派とのイメージがありますが、むしろ行政手腕に優れていたといえ、土木の神様ともよばれています。
肥後(熊本)では大規模な治水工事を行い現在もその遺構は残されています。また、藤堂高虎と並び築城の名人とされていますが、築城には地理的条件からの場所選定、緻密な縄張り、大規模な資金・資材の調達、人員の動員等優れた行政手腕が不可欠です。秀吉死後は積極的に家康と接近しており、機を読む能力にも長けていたと思われます。
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