庚午事変とは明治時代初期に徳島藩で起こった、淡路島が兵庫県に編入されるきっかけとなった事件です。吉永小百合さん主演の映画『北の零年』でも事件について触れられています。
蜂須賀家と稲田家の関係
最初に事件の背景をさかのぼって説明したいと思います。
慶長20年(1615)、大坂の陣の戦功により徳島藩主蜂須賀家が淡路島を拝領しました。そして淡路洲本城代として入城し、江戸時代を通じて淡路島を統治したのがこの騒動の主人公である徳島藩筆頭家老の稲田家です。
稲田家と主君である蜂須賀家との関係は戦国時代までさかのぼります。稲田家の祖、稲田植元は蜂須賀正勝(小六)と義兄弟の間柄で共に羽柴秀吉に仕えていましたが、蜂須賀家政が阿波に入国した際、蜂須賀家の客分となりました。その後、時が経つにつれて客分から家臣となったという特殊な経緯がありました。
稲田家は家臣になったとはいえその成り立ちと洲本城代(知行1万4千5百石)を永年務めていた関係から、蜂須賀家内において半独立的な立場になっていました。徳島藩は約26万石なので、その家老が1万4千5百石というのはかなり特別扱いされていたといえます。
当然、他の徳島藩家臣とは別格であるという意識があり、蜂須賀家との関係も良好とはいえませんでした。主君との関係性は違いますが、家の成り立ちは肥後熊本藩における細川家と八代城代松井家の関係に似ていると思います。
庚午事変~幕末の悲劇
幕末期、蜂須賀家の当主は徳川将軍家からの養子であったため、佐幕派として行動していました。ところが、稲田家は主家である蜂須賀家の意向とは違う尊王派として藩内で対立していました。
稲田家臣は、洲本藩、稲田藩などと称して独立して倒幕活動に加わり、戊辰戦争では征討総督府有栖川宮の警衛を務めるなどし活躍します。
最終的には徳島藩は尊王派で統一され明治維新を迎えますが、ここで問題が起きます。版籍奉還後に明治政府は旧武士階級を士族と呼ぶことに定めますが、蜂須賀家の直臣が士族なのに対して、稲田家の家臣は陪臣ということで一段低い卒族という扱いになりました。
稲田家は大名並の知行を有していたため、その家臣には数百石取りも多数いましたが、士族にはなれませんでした。稲田家側としては元々蜂須賀家と同格であった家柄に加え、当初から尊王派として活動していた自分たちが卒族とされたことに抗議しますが、認められませんでした。稲田家だけ特例を認めてしまえば、他の大名家の陪臣からも同様の申し出が続出することが明白だったからです。
そして次に起こした行動が、淡路洲本藩を新たに立藩し、徳島藩から独立させることでした。稲田家当主の邦植が大名になれば、その家臣は士族ということになります。
稲田家側は、伝手のあった有栖川宮や岩倉具視などに訴えかけるなど独立活動を行います。
この稲田家側の行動に徳島藩の一部の武士が怒り、平和解決を目指す徳島藩庁の態度も手ぬるいと、武力解決を主張したのです。
稲田家中を北海道に移住させる策などにより解決を図ろうとする政府から命を受け、徳島藩知事と稲田家当主双方が上京している最中に徳島藩士強硬派が決起します。
武装して稲田家側へ襲撃へ向かおうとする強硬派を藩庁側が制止しようとしますが止められず、制止に向かった藩庁の下条勘兵衛と牛田九郎は自らの死をもって収めようと腹を切ります。
更に藩庁からの説得は続き、徳島内の稲田家屋敷、稲田領を襲撃しようとした徳島藩士らはついに説得に応じますが、それでも強硬派を止めることはできなかったのです。
淡路島での強硬派は藩庁の説得に応じず、洲本城下の稲田家とその家臣の屋敷を次々と襲撃します。
農兵まで招集し800人以上にもなった部隊は、大砲、小銃をも用いて襲撃を続け、稲田家側は女性子供を含め、死者17名(2名は自害)、重軽傷者20名の被害を出しました。
稲田家側は襲撃の際、他国へ逃れるなど一切無抵抗だったといわれています。抵抗して大規模な戦闘が起きることによって、洲本藩独立の夢が消えるのを避けたということでしょうか。
事変の処分とその後の稲田家
徳島藩側の処分は切腹10名、八丈島への終身流刑27名、禁固81人に及び知藩事である蜂須賀茂韶も謹慎処分となっています。この騒動が原因となり最終的には明治9年(1876)に淡路島は兵庫県に編入されることになりました。
その後、稲田家には北海道静内と色丹島への移住が命じられました。稲田家臣は念願の士族の身分と引き換えに北海道の開拓に従事することとなったのです。
その後、移住船の遭難、移住地での大火など苦難の日々を送ることになります。映画『北の零年』でもそのあたりの状況が詳細に描かれています。
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