一般にはあまり知られてはいませんが、幕末の水戸藩では天狗党(尊王攘夷派)と諸生党(保守派)に分かれて争っていました。
天狗党は幕府に横浜港の閉鎖を要求するため、藤田小四郎を中心に筑波山で挙兵し(のちに武田耕雲斎が首領となる)中山道を進軍、幕府軍の追討を受けることになります。
元治元年(1864)12月に天狗党が越前国敦賀で加賀藩に投降した後、武田耕雲斎や藤田小四郎をはじめ352名が処刑されますが、耕雲斎の孫金次郎は若年ということで、助命され遠島処分となりました。
金次郎は小浜藩に預けられ謹慎していましたが、そこで水戸藩内で諸生党による天狗党家族への凄惨な復讐を知ることになります。
水戸にいた金次郎の家族は3歳の幼児まで処刑され、さらし首にされていたのです。耕雲斎の妻は夫の塩漬けの首を抱えさせられ、斬首されています。幕末は他藩でもいろいろな派閥闘争がありましたが、ここまで凄惨な事象は聞いたことがありません、、、
ちなみに金次郎の生家の武田家は戦国時代に甲斐武田家の重臣であった跡部勝資の子孫です。
王政復古が行われると、罪を許され朝廷を味方につけた金次郎は復讐を開始します。
慶応4年(1868)4月、京都から同志130人を連れて江戸の小石川にあった藩邸に乗り込むと、諸生党派の十数人を殺害します。水戸藩邸の周囲にも、首のない藩士の遺体が6体転がっており、中には両手を後ろで縛られたものもあったそうです。
その後水戸へ帰った金次郎らは、諸生党への復讐を開始しました。金次郎一派はさいみ(布目の荒い麻)の羽織を着ていたため、「さいみ党」と呼ばれました。
金次郎が水戸藩に凱旋してからのことは山川菊栄著の『幕末の水戸藩』や『維新前夜の水戸藩』に詳細が記されています。
山川菊栄の母方の実家は青山氏という水戸藩士で、曽祖父(青山延于)と祖父(青山延寿)は『大日本史』編纂局総裁をつとめています。
それによると白昼堂々、諸生党に関係した藩士やその家族を惨殺してまわったとか、襲撃にきた金次郎に青山延寿が声をかけた話など、他にもいろいろ詳細に記されており、当時の水戸藩の凄惨な内情がわかります。
諸生派を片っ端から多数で襲っていき、腕の立つ相手には鉄砲まで使用したとされています。病床の相手を布団にくるみ、橋から吊り下げて斬ったこともあったそうです。
当時、諸生党に少しでも関わりがあった家は「さいみ党」にいつ殺されてもおかしくない状況で、奥州の旧幕府軍に身を投じたり、田舎に身を隠す者もいたそうですが、脱藩して逃げることも武士の身分を捨てて一族路頭に迷うことになるのでなかなかできず、生きた心地がしなかったと言われています。
藩主であった徳川慶篤(よしあつ)は慶応4年(1868)4月に病死し、子の篤敬(あつよし)は幼少であり跡を継いだ弟の昭武は渡欧中であったため、統制する主君もおらず、文字通り無法地帯だったのです。
なお、諸生党の首領であった市川三左衛門は会津に行き会津藩と共に戦いましたが、会津降伏後は水戸に戻り再起を期し戦いますが敗れ、最後は東京に潜伏しているところを捕らえられ、水戸に送られて逆磔の極刑を受けることになります。
一連の復讐により、諸生党の100名以上が、被殺、死罪、牢死、自害により命を奪われたのです。その他各地の戦いで戦死した者を合わせると、500名近くが命を落としたといわれています。
なお、天狗党ら勤王派も、安政の大獄以来約1800人が命を落としたとされており、維新後に活躍できる水戸の人材はいなくなってしまったといわれています。
一族の復讐を果たした金次郎ですが、近年見つかった史料によると、晩年は栃木県の温泉で風呂番をしており、生活もかなり困窮していたそうです。
金次郎は明治28年に48歳で亡くなったとされています。
幕末あれだけ重要な役割を果たした水戸藩ですが、明治政府の中枢には藩出身者は誰もいなかったのです。凄惨な藩内闘争を繰り返すうちに主だった人が処刑・暗殺され、人材が途絶えたと言われています。
金次郎も一族が悲惨な最期を遂げていなければ、また違った人生を歩んでいたかと思うと複雑な気持ちになります。
戦いの舞台にもなった水戸弘道館
【主要参考文献】
『幕末の水戸藩』(山川菊栄著)
『維新前夜の水戸藩』(山本秋広著)







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