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宇陀崩れ~織田家国持大名格からの転落

 『宇陀崩れ』という、江戸時代中期の元禄7年(1694)に大和国(現奈良県)の宇陀松山藩で起こったお家騒動について紹介します。

 織田信雄の五男高長は、父の改易時代、細川家や加賀前田家に身を寄せていましたが、後に信雄の所領のうち大和国宇陀31200石を受け継ぎます。

 高長の跡を継いだ子の宇陀松山藩3代藩主の織田長頼は、弟の長政に福知村ほか8か村3000石を分与し、宇陀松山藩は28200石となります。

 やがて

藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって祖父の織田信雄から仕えてきた創業功臣の子孫である古参衆の重臣と、高長が寄寓していた加賀時代からの家臣である加賀衆が対立するのです。

 古法を順守しようとする古参衆に対し、開墾や植林をはじめ積極的な政策を展開しようとする加賀衆でしたが、藩主信武に近い加賀衆が政策に名を借りて私利私欲に走っていると捉えた古参衆と激しく対立していきます。

 積極政策により藩の収入は増加していきますが、加賀衆は驕り、また、納税に困る農民に高利で金を貸し付けで利殖を増やすなど、農民も困窮していったともいわれます(真偽は定かではありませんが)。

 加賀衆の中心となり権勢を振るったのが藩主長頼の寵臣で用人の中山正峯でした。

 元禄2年(1689)に長頼は死去し、子の信武が跡を継いで4代藩主となり、信武も長頼同様に中山を重用したのですが、諫言と讒言が入り混じる両派の対立状態が続いたのです。

 元禄5年(1692)、古参衆の重臣らが、中山正峯を公金横領による不正蓄財で訴えるも、信武により退けられます。

 その後幾たびか信武に訴え出るも相手にされず、元禄7年(1694)9月29日、古参衆の田中安定が藩主の元へ参上し再び正峯を訴え、信武に「何分かの御返事を頂けなければ御前を退かない」と決意を示したため、信武は怒り狂って安定を手討ちにしてしまったのです。

 更に信武は、病により登城を拒否した古参衆の生駒則正(38歳)にも討手を遣わします。

 則正の屋敷に至った3名の藩士は、事情を知らない則正に書院へ通されますが、「上意」と言い突如則正を斬り倒したのです。

 その後則正の老父母は親類宅へ押し込められ、弟の宇右衛門は切腹させられます。更に則正の子6歳の長男長兵衛、3歳の次男主馬兄弟までも斬られたのでした。

 また、田中家へも討手が差し向けられ、安定の養子安久は切腹させられました。

 生駒、田中両家の残った者達は他国へ追放されますが、既に泰平の世であった時代、この大事件は畿内一円に広がり、信武も親類の藩を通じて幕府に報告したのです。

 幕府では事件の詮議に入りますが、信武の心中は穏やかではなくなります。

 更に江戸に居る実母から、「生駒は先代の臨終時に枕元に呼ばれて、貴公(信武)のことをくれぐれも頼むと言われ、感涙し誓言を申し立てていたのに、逆心などとはありえないでしょう。幕府の沙汰を案じているところです」といった手紙が届いたといわれ、信武は後悔と不安で気を病み、食事も喉を通らなくなります。

 そして同年10月30日、信武は奥座敷において自害して果てたのです。

 家臣らは、信武は病死したと幕府に届け出ますが、幕府は真相を疑い、「遺骸改め」を京都所司代に命じて、結果自害であったことが明らかになります。

 これを受けて翌年、後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原(かいばら)藩2万石に減封のうえ国替となり、宇陀松山藩は廃藩、宇陀は天領となりました。

 また、信休の代からは、それまで信長の子孫ということで従四位下侍従であった国持大名並みの格式を剥奪され、従五位下諸大夫に落とされてしまったのでした。

 この従四位下と従五位下ではどのような違いがあったのか具体的に解説していきます。

 江戸時代のほとんどの大名の官位は、譜代・外様とも元服から亡くなるまで従五位下が一般的でした。「元禄赤穂事件」で有名な赤穂5万3000石の藩主浅野長矩は従五位下内匠頭です。

 次の武家官位が従四位下で、大名が従五位上、正五位下、正五位上に叙されることはありませんでした。

 先ほどの浅野内匠頭の本家である広島42万石の藩主浅野家は従四位下でした。また、「元禄赤穂事件」のもう一方の当事者である高家の吉良義央(よしひさ)は最終的に従四位上左近衛権少将(じゅしいのじょうさこんえごんのしょうしょう)まで昇っています。

 織田家は、明治維新まで2系統4家が大名として生き残りました。信長の次男信雄の系統2家と信長の弟長益(有楽斎)の系統2家です。

 この4家の中で信雄の系統2家は、信長の子孫ということで江戸時代になっても別格の扱いを受けていました。この2家は石高は2~3万石ですが、官位は国持大名並み(準国主)が任官する従四位下侍従で、江戸城内での詰所は「大広間(おおびろま)」でした。江戸幕府の重職である老中、京都所司代の官位も従四位下侍従です。

 「大広間」には、当時どのような大名が詰めていたかというと、、

 鹿児島島津家、仙台伊達家、熊本細川家、福岡黒田家、広島浅野家、佐賀鍋島家、萩毛利家などのそうそうたる大大名です。

 また一般の外様大名(従五位下)の詰所である「柳間」での序列は、まず城主大名が石高順に座り、次に無城大名が石高順に座りました。

 しかし、従四位下以上の大名の詰所である「大広間」での序列は、石高ではなく官位の上下が優先していました。

 同じ官位の場合は先任順なので、場合によってはわずか2~3万石の織田家が熊本細川家や福岡黒田家のような50万石以上の大大名よりも上席になることがあったのです。

 また、宇陀松山藩主と同じ織田信雄の子孫である上野小幡藩主の織田家も「明和事件」で同様に準国主の待遇を失っています。

 上野小幡藩の初代藩主信良は、信長の嫡流ということで従四位上左近衛権少将にまで昇っています。

 この官位は加賀前田家に次ぐもので仙台伊達家とほぼ同格という2万石の外様小大名としては破格のものでした。

 信長の嫡流であったため別格の扱いを受けていたのです。さらに信良の娘は3代将軍家光の弟徳川忠長と結婚しています。

 これだけみても信雄系の織田家がかなり特別待遇を受けていたことがわかりますね。

 両織田家はこのような特権をこの「宇陀崩れ」と「明和事件」で失ってしまったのです。

 余談ですが、江戸時代後期に南部藩主が津軽藩主の下位に位置されたことがあって、盛岡藩士が津軽藩主を暗殺しようとして未遂になった事件が起こりました。(相馬大作事件)

 津軽家はもともと南部家の家来でしたが、戦国時代の終わりに南部家に謀反を起こして独立したという経緯がありました。このことが原因で江戸時代になっても両家の間には確執があったのです。それでも従四位下である南部家の方が従五位下である津軽家より格式が上ということで何とか南部家の体面が保たれていました。

 しかし、江戸時代後期に津軽家が高直しにより石高が上昇し10万石となったことで従四位下に昇進したのです。

 従四位下に昇進したことで、詰所も「大広間」となり準国主大名に列し、戦国時代は主君であった南部家と同格になりました。

 そして、南部家の当主が年が若かったこともあり津軽家の方が上座となったことが、耐えがたい屈辱となって襲撃未遂事件が起こったのです。

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