足利義輝の最期
室町幕府第13代将軍の足利義輝は、有名な上泉信綱や塚原卜伝から教えを受けた剣の達人でした。
当時の将軍に実権はありませんでしたが、勢力を誇っていた三好長慶の死を機会に、越後の長尾景虎(上杉謙信)らの力を借りて権威回復を図ろうとしました。
しかし永禄8年(1565)5月19日に将軍の動きを警戒した三好三人衆や松永久秀の軍勢10000人が将軍御所に攻め込みました。
義輝は覚悟を決め、側近らと酒を酌み交わし、辞世の句
「五月雨は 梅雨か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
を詠むと、幾本もの足利家累代の宝刀を鞘を払って床に突き立てました。
そして襲い掛かる敵を刀を替えては次々と斬り倒し続けました。義輝の強さに手を焼いた攻め手側は、なんとか薙刀で義輝の足を払って倒し、四方から障子を被せ押さえつけて障子越しに無数の刃を突き立て、義輝はわずか30歳で絶命したのでした。
義輝の子孫
一説には、義輝と側室烏丸氏の子が生き残り、足利道鑑(尾池義辰とも)と名乗って生駒家の後に肥後細川家に仕えています。
肥後細川家では1000石の高禄で家格待遇も優遇され迎えられていますが、当時の細川家当主忠利は義輝側近であった細川藤孝の孫ですので、足利の血を引くことの信憑性は高いのではないでしょうか。子は西山と姓を変え、代々細川家に仕えています。
足利将軍の受難~6代義教・10代義稙
なお、義輝より3代前の第10代将軍の足利義稙も襲撃を受けたことがあります。
義稙は応仁の乱後の動乱期に将軍となったものの将軍職を追われ諸国を流浪し通称「流れ公方」とも呼ばれた人物です。
永正6年(1509)に前将軍義澄の放った数名の刺客が室町御所に侵入し義稙の寝所を襲いました。
義稙は3人の近習とともに刀を振るって戦いましたが、烏帽子、着物もズタズタに切り裂かれ流血するなど絶体絶命のピンチを迎えました。
しかし義稙は燈火を消して身を隠し、刺客たちは近習の死体を義稙と思い込み引き上げたため命拾いしたのでした。
6代将軍の足利義教も暗殺されており、足利将軍家は苦難の連続でありました。
日本刀の切れ味
日本刀は2,3人斬ると血糊や脂で切れなくなるといわれていますが、実際、時代劇のようにバッサバッサと相手を切り捨てることは刃こぼれもしますし無理でしょう。
実戦では弓や槍、鉄砲が主役で、刀は防御か相手にとどめをさし首を取るときに使う程度だったようです。
また、銘刀・無銘問わず切り結べば、折れることも刀身が曲がることもあります。
江戸時代、蜂須賀家で銘刀を集めて峰を打ち合わせて試したところ、焼刃が深い華美な大出来物と呼ばれる刀は全て折れ、地味な小出来物は折れなかったそうです。
義輝が名刀を何本も取り換えながら戦ったと伝わるのも、真偽はともかく当時の常識での日本刀の限界を示していると考えられます。
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