山内一豊の土佐移封
慶長5年(1600)、掛川城主であった山内一豊は関ヶ原の戦い時の功により家康から土佐一国を与えられます。
しかし、土佐の旧領主であった長宗我部盛親は、西軍に付いたことを井伊直政を通じて家康に謝罪する一方、土佐での抵抗も画策していたといわれ、土佐は不穏な情勢にありました。
長宗我部旧臣の反発~浦戸一揆
長宗我部盛親は土佐から家康への謝罪のために出国したまま改易となり、土佐に戻ることなく京へ移り住みます。盛親が土佐に籠って抵抗することはなくなりましたが、土佐には一領具足などの土着の長宗我部家臣がそのまま残っていました。
一領具足とは、平時には百姓として農作業に当たり戦時には戦闘員として戦う半農半士で、長宗我部家では兵農分離がなされておらず、土佐には多くの土着の士がいたのです。
家康はまず井伊直政に長宗我部家の本城浦戸城を接収し山内家に引き渡すよう指示し、直政は家臣の鈴木平兵衛と松井武太夫を城受取役として土佐に派遣します。
改易された盛親も国元へ城を明け渡すよう書状をしたためますが、一領具足らは納得せず鈴木平兵衛らに対し武力で威嚇したうえ浦戸城も明け渡しません。
平兵衛らは浦戸城に入るのを諦め、長宗我部家の菩提寺である雪蹊寺に入り反抗者の説得を続けますが、反抗する一領具足らは、領地を削られても盛親の代わりに別の者が当主になろうと長宗我部家を存続させるよう訴えてきます。
一方で桑名弥次兵衛や吉田次郎左衛門ら長宗我部家の重臣たちは、家康や盛親の指示に従うべきで、井伊家の使者に対し狼藉を働くなどもってのほかと反抗する一領具足と立場を異にします。
結局、桑名弥次兵衛が一領具足の味方をするふりをして浦戸城本丸を乗っ取り、重臣たちの軍勢が各地で一領具足を討伐したのです。
討ち取られた一領具足の首273級は浦戸城下に晒された後、塩漬けにされ大坂に送られたといいます。
相撲大会と一領具足の虐殺
浦戸一揆鎮圧後、一豊はまず弟の山内康豊を先に入国させ井伊家から浦戸城の引き渡しを受けます。
そして慶長6年(1601)正月に土佐に入国した一豊は、2月になって山奥に逃げ隠れた郷民たちに、安堵して還住するよう触れを出します。
さらに、新国主入国の祝賀行事として、3月1日に桂浜で土佐国中から著名な取手を招いた相撲大会を開催すると触れ回ったのです。
相撲大会には土佐中の一領具足ら郷士、町民など多くの見物人が集まったのですが、ここでなんと一豊は見物に訪れた人々の中から73人を捕らえ、種崎の浜辺で磔にしたのです((((;゚Д゚))))
この73人は浦戸一揆に関係するなどしていた山内家に反抗的な一領具足や庄屋たちで、一豊が事前に調べ上げていたのでした。
さらに、名前が挙がっていた者のうち相撲大会に出てこなかった者のところには兵を派遣し捕らえて現地で磔にするなど、徹底して反乱分子を粛清していったのです。
一豊は家臣を各地の在地領主に任命するなど支配を進めますが、慶長8年(1603)には長宗我部遺臣の高石左馬之助が強権的な年貢取り立てに反抗して山中の砦に立て籠もった滝山一揆(本山一揆)が起こっています。
討手の山内勢と激しい戦闘になり双方に多数の死傷者が出ますが、結局左馬之助は他国に逃亡し鎮圧され、これを最後に新領主への武力抵抗は終わりを告げたのです。
土佐での一豊は、外に出る際には常に同じ格好をした影武者を複数人従えており、一領具足の残党による暗殺を警戒していたといいます。
その後の長宗我部旧臣たち・・
長宗我部家の重臣たちは、土佐に残り山内家に仕える者、他国に出て別の大名家に仕えるなどそれぞれの道を歩みます。
桑名弥次兵衛は藤堂高虎に仕えますが、大坂の陣でたまたま旧主長宗我部盛親勢と戦うこととなり、自殺するように討死したといわれています。
吉田次郎左衛門は保科家に仕えたといわれますが、一族で山内家に仕えた者の子孫には幕末に活躍した吉田東洋もいます。
他国に仕官する道もあった重臣たちに対して一領具足らは、山内家に臣従して村役人・郷士となるか、武士身分を捨てて農業に従事するかを選択し、土佐でその血脈を保っていったのです。
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