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来日宣教師の戦国見聞録~豊後の内乱

 戦国時代に来日した宣教師の見聞記録は、当時の日本社会を第三者の目で客観的に記した興味深いものですが、今回はその中から、宣教師が巻き込まれた豊後大友家の内乱について記した記録についてそのまま紹介します。

豊後の内乱

 我らが山口から豊後に到着したとき、重臣3人が豊後王に対して反乱を起こしていた。1553年2月(天文22年1月)、豊後国内は騒乱状態に陥り、信徒たちがやって来て、町は焼かれ略奪が行なわれようとしていると言い、我々に所有物を隠すよう促した。

 我々は王の元へフェルナンデス神父を派遣し、彼と話すことができたならば、ゼウスは希望を抱く者に恵みを与えるので勇気を持つよう、そして我々が王のためにゼウスに祈ることを伝えようとした。

 フェルナンデスが王の館に到着したとき、そこは混雑し武将たちが溢れんばかりにいて、誰が敵で誰が味方なのか分からず、ただ兵を率いて謀反人を討つ武将のみ分かっているようであった。

 フェルナンデスは王と会うことができずに首を斬られることを心配したが、偶然王が彼が待っている方の扉を開けたため会うことができ、我々の言葉を伝えた。王は非常に喜び、我らが彼のためにゼウスに祈ることを求めた。

 この国で我々が親しいのは豊後王のみで、その彼が危機に陥っていたのであるから、我々にも危険が迫り、命運もゼウス次第であった。

 街中には多数の武装した人々が徘徊しており、反乱を起こした重臣たちは短時間で滅ぼされた。一人はファトリ殿(服部左京亮?)、他はイチマンダ殿(一万田鑑相)、もう一人はエヌワカタン殿(宗像鑑久)といい、高位の者であったが、王は彼等並びにその妻子、親戚、その他大勢の人の命を奪わせた。

 我らはこの騒乱の中、家の中に入って戸を閉じ、我らの主に祈ったが、喉に刀を当てられているような思いであった。このような時、謀反人の一人の子が会堂に来て、匿ってほしいと願ってきた。我々はそれが何者か知らず、ベッドの下に隠れていれば明日また助ける手立てを考えようと言った。

 その後謀反人らの家に火が放たれ、その火が広がったので、商人及び武士の家が約三百軒焼失した。我らの所有物を置いていた家にも火が近づき取り出すのを諦めたが、神の思し召しにより、周囲は焼けたものの我らの家は焼けず失った物は無かった。

 その夜、王は一人の武士を派遣してきて、当日の心労を告げ、戦いは終わったので安心するよう、また、所有物が焼けたと思われるが弁償するので安心するよう伝えてきた。

 我らはそれに対して謝意を述べ、何も物は失っていないことを答えると大いに喜ばれた。四五日後、王を訪問しこの時の話をしたが、長くなるのでここには記さない。

(1554年 ペロ修道士の書簡)

切腹の方法

 我らが豊後に到着する数日前(1556年)、豊後王(大友義鎮)は謀反を起こした重臣らを火と武器によって攻撃し、13人の主な重臣の家を焼いてその家族と家来たちの命を奪った。その夜双方で7千もの人が命を落としたということである。

 王は安全のため城のような島(丹生島)に逃れていた。この騒乱のためキリシタンらは少なからず不安を感じ、我らは国王がもし亡くなるならば我らも只では済まないだろうと思っていた。

 聞くとことによると、陰謀を企てた者は、国王が謀反人等の命を奪う時に逃れた者数名及び国王と親戚関係にある死者の友人数名であったが、主の御慈悲によって事は治まり、貴族等は国王の寵を復し恩恵を与えられたので騒乱は収まった。

 国王が己に叛き、また反逆を謀った大身を罰する方法は次のごとし。

 王が「死すべし」と定めた人は当日これを解放され、「何日に死すべし」と伝えられる。反逆者は殿下の命あれば自害すると答え、王がそれを許せば大いなる名誉とする。

 最もよい衣服を着し、短剣を手に取り胸より刺して腹の下に至り、十文字に転じて片側よりもう片側へ腹を切りて死す。このように死んだ者は反逆者のそしりを受けず、相続人とその家は従前のままである。

 国王がもし自害を許さず追討すると答えれば、反逆者は一族郎党で武器を取ってその家に立て籠もり、国王は指揮官に十分な兵を与えこれを追討するのである。

 市民は反逆者が自邸或いは田野において攻撃を受けるのを見物する。双方まず矢を放ち、更に近づいて槍を用いて戦い、最後は剣を交える。

 このようにして反逆者一族は命を奪われ、その家は焼かれ、一族の名は滅びる。

 国王は我らが到着する前にこのようにして反逆者たちを討伐した。

(1557年10月 ガスパル・ビレイラ)
(1558年1月 ペルショール)