後北条氏を取り巻く情勢
天正18年(1590)、関東の雄であった北条家(後北条氏)は豊臣秀吉による小田原征伐をうけることになります。秀吉は関白に任官して全国統一を進めており、従っていない地域は関東と東北地方だけという状況でした。
当時の北条家は関東に約240万石もの領国をもち、強大な勢力を誇っていました。しかし、その領国の北は長年抗争を繰り広げてきた上杉家、西は徳川家、東は佐竹家などの豊臣方から囲まれており、いずれも戦国時代を生き抜いた強力な大大名です。豊臣軍は約22万の軍勢を小田原に向けて進軍させたのです。
豊臣家と圧倒的な勢力差がありながら、なぜ北条家は戦うことになったのでしょうか。
北条家と織田信長
実質的な北条家当主であった氏政は、秀吉の前の天下人であった織田信長とは友好関係にありました。氏政は武田勝頼との戦で劣勢に陥っていた天正7年(1579)には、信長に臣従を申し出ています。同盟ではなく臣従です。さらに嫡男氏直の嫁を織田家から貰う予定でした。当時の織田家は畿内を制していたとはいえ、いまだ中国地方の毛利家、四国の長宗我部家が存在していました。
この事実だけでも氏政は情勢をみるのに優れており、決していわれているような自らの力量が計れない人物ではありません。本能寺の変が起きなかったら、徳川家康と同じく織田政権の従属大名の一人として名を連ねたでしょう。領地は削減された可能性が高いですが、、、
そもそも氏政が滅亡の危機を抱くほど恐れていた武田勝頼を圧倒的な力で葬ったのが信長です。それに比べ、秀吉の勢力はさらに強大でした。力関係からみても秀吉に従わない道理はないはずです。
北条家と豊臣秀吉
ここでよくいわれているのが、低い身分から成り上がった秀吉に頭を下げるのを名門伊勢氏を祖にもつ氏政が屈辱に思っていたという説です。しかし、それをいうなら信長も尾張守護斯波家の陪臣なので、信長はよくて秀吉は嫌だというのもおかしな話です。
過去に中央政権に臣従した経験がある氏政がかたくなに意地を張っていたとは思えません。当然、中央政権との力の差を認識していて、臣従するのは仕方がないと考えていたことでしょう。実際、秀吉への臣従の話がほぼまとまりかけ、天正16年(1588)8月に氏政の弟氏規を使者として大坂へ派遣しています。そして、秀吉から氏政の上洛を促され、氏規は了承します。
天正17年(1589)2月には評定衆の板部岡江雪斎が上洛し、真田家との上野沼田領問題の裁定を秀吉に要請し、沼田領の3分の2を北条家に還付することで解決し、沼田領は同年7月に北条家に引き渡されました。
この時点ですぐに氏政が上洛していれば、まだ北条家にそこまで悪感情を抱いていなかった秀吉は、それなりの待遇で北条家を迎えたと思います。しかし氏政は理由をつけて引き延ばし、なかなか上洛しませんでした。
なぜ小田原征伐を招いた?
氏政は、臣従するにしても少しでも良い条件を引き出すために時間稼ぎをしていたのではないでしょうか。簡単に従ってしまえば、豊臣政権内での序列(官位)に影響すると考えたのではないかと思います。家康より下位は仕方ないとしても、早くから秀吉に従っていた上杉家より下の可能性が高いです。父氏康の代からの上杉家との関係を考えると、氏政としては思うところがあったでしょう。
また、家康は秀吉から妹旭姫を正室として送られ、母親まで人質に出させるという破格の待遇を得たうえで、豊臣家に臣従しています。氏政も家康と同様の待遇を得ることを考えていたのではないでしょうか。しかし、家康の時はまだ九州平定の前であり、小田原征伐の時期とは情勢が全く異なっていました。秀吉が北条家に遠慮する必要など全くなかったのです。
そうした状況の中、同年10月に氏政の弟氏邦の家臣猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きてしまいます。そして、この事件がきっかけとなり小田原征伐を招き、北条家は滅亡することになります。戦えば敗れることは明らかだったのに、のちの歴史を知っているわれわれからしてみれば、なぜ?と思ってしまいます。
しかし、氏政は万が一秀吉と戦うことになって敗れたとしても、領地をすべて没収されるとまでは考えていなかった可能性があります。なぜなら、織田家内部で主導権を争った柴田勝家は別として、秀吉軍と戦って敗れた長宗我部家や島津家は領地を残されているからです。ましてや、家康に関しては厚遇されています。
そして、今まで滅亡一歩手前まで追い詰められた経験がなかったことが、氏政の判断を鈍らせたことに関係していると考えられます。同じく、戦国時代を代表する大名であり、早くから豊臣家に従属した毛利家、上杉家と北条家が違う点は、信長生前に織田軍団と戦っていないことです。両家とも本能寺の変が起こらなかったら、武田家と同様滅亡していたことでしょう。
特に上杉家は本国越後に進攻される寸前でした。織田家の一方面軍団にも歯が立たず、辛くも生き残った両家は、それだけ天下人の恐ろしさを身に染みてわかっていたと思います。このことが秀吉に早くから従えた要因ではないでしょうか。
逆に北条家は両家と違って信長に従っていました。本能寺の変後に織田家の滝川一益軍と戦いますが、当時の滝川軍は信長の死によって、配下の武将の足並みが乱れており、北条軍の方が3倍ほど兵力が上だったこともあり、大勝しています。一軍団とはいえ、中央政権の軍勢に勝った事実が下手な自信となって、迅速な対応をしなければいけない場面において災いしたともいえます。
時勢を読むことが出来なかったといわれればそうですが、決して天下人(豊臣家)の力を侮っていたわけではなく、従う時期を見誤ったことが、北条家滅亡の原因ではないでしょうか。
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