天秀尼の生涯~秀吉子孫唯一の生き残り
大阪の陣で豊臣一族は滅亡したと思われがちですが、実は秀頼の娘1人だけが生き残っています。
妾腹の子で当時7歳でしたが、女であり千姫(秀頼の妻・徳川家康の孫)の養女ということで特別に命を助けられ、鎌倉の東慶寺に預けられました。
ちなみに年子の兄である国松は8歳でしたが処刑されています。
娘はやがて天秀尼と名乗るようになり、そのまま東慶寺で暮らしました。
寛永16年(1639)に会津40万石の大名であった加藤明成の家老堀主水が明成の非道を訴え脱藩した際に、追手から逃れるため妻を東慶寺に預けたそうです。
追手は妻を引き渡すよう要求しましたが天秀尼は断固として拒否し、養母である千姫を通じて幕府にも訴え、天秀尼側の主張が認められて堀主水の妻たちを守っています。ちなみに相手方の加藤明成は、天秀尼の祖父豊臣秀吉子飼いの武将賤ケ岳七本槍の一人加藤嘉明の息子ですね。
東慶寺は中世以降女性を守る駆け込み寺でしたが、一層評判を高め、幕府も縁切寺としての権利を正式に認めたのです。
その後天秀尼は東慶寺20世の住持となり、正保2年(1645)に37歳でこの世を去りました。婚姻はしておらず天秀尼の子はいませんでしたので、秀吉の血を引く子孫は絶えたことになります。
なお、幼い頃から天秀尼には甲斐姫が側に従い養母代わりであったとの説もあります。甲斐姫は北条家臣成田氏長の娘で忍城籠城戦で活躍し、後に秀吉の側室となった人で、映画「のぼうの城」では榮倉奈々さんが演じています。
その後の東慶寺~女性の駆け込み寺
江戸時代後期には、女性側から離婚を主張できる離婚裁判所のような役割を果たすようになりました。
離婚したい女性が夫から追われてきても、体や身に付けていた物の一部でも寺内に入ると寺から保護されました。
保護された後は、寺の関係者による調停で離婚する流れとなり、調停が不調に終わっても3年間寺に居れば離婚することができました。
江戸時代を通じて数千人の女性が助けられたといわれますが、天秀尼の働きが大きく影響していることは間違いありません(*^-^*)
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