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朝比奈騒動~大名改易まで及んだ旗本家の惨劇

 江戸中期の寛延4年(1751)8月、ある旗本の家で、不義密通に端を発した斬殺事件が起き、その関係で大名が改易されたほか大量の旗本も処分される事態にまで発展しています。

 一体どのような事件だったのでしょうか。

旗本朝比奈家での惨劇

 事件は、寛延4年(1751)8月24日、御小姓組であった千石取りの旗本朝比奈百助が、44歳で亡くなった日に起こります。八代将軍吉宗が亡くなった直後の時期です。

 百助の子は当時25歳の万之助義豊といい、同じく千石の旗本植村千吉の姉を妻に迎えていました。

 千吉の植村家は、大和高取藩主植村家の分家に当たる上総勝浦藩1万石の藩主植村家の更に分家に当たり、千吉は当時21歳でした。

 朝比奈家に親戚が集まって百助の葬儀の準備をする中、突如凄惨な事件が始まります。

 万之助が広縁に居た千吉を、突然後ろから袈裟斬りにしたのです。

 千吉はすぐに息絶え、さらに万之助は、百助の湯灌(遺体を洗い清めること)をしていた朝比奈家家老の松田常右衛門と百助の後妻(万之助の継母)ぎのにも斬りかかります。

 常右衛門は息絶え、ぎのは深手を負いながらも縁の下に逃げ込み命は助かりました。

 さらに万之助は家の中で次々と凶刃を振るっていきます。

 下女のみどりを斬り倒し、乳母のたつ、下女のさきにも深手を負わせたのです。

 その後万之助は、自室へ戻り血で汚れた着物を着換えると、玄関へ行き外へ出ようとします。

 そこへ祖母の栄寿院(60歳)が追いかけて来て、

「これだけ人を殺めておいて何処へ行くのか。切腹の覚悟はあるのであろう」

と言葉をかけると、万之助は

「もちろん覚悟は致して居る」

と答え、自室へ戻り腹を切ったのです。この介錯は栄寿院が行ったとされています。この栄寿院は先々代の後妻で、元は吉原の遊女で若いころ身請けされてきたのですが、武家の女として長く過ごし、肝の据わった女性だったそうです。

事件の原因

 一体なぜ万之助はこのような凶行に及んだのでしょうか?

 複雑な事情が絡み合っていますが、第一には、万之助の妻とえと、その弟千吉が姦通していたことを知ったからだとされています。なお千吉は旗本真田家から植村家への養子でしたので、実の姉弟ではありませんでした。

 万之助は妻と千吉を斬るつもりで、まず千吉から斬ったのです。屋敷中を見廻ったのは妻が見当たらなかったので探していたためで、下女を斬ったのも妻を探すのに邪魔であったためとされています。

 しかしその時妻は見当たらず、実家に逃げたのではと屋敷を出ようとしたところを栄寿院に止められ、もはやこれまでと腹を切ったのでした。

 更に継母ぎのと家老の松田を斬ったのは、継母が松田達と共謀し、自分が生んだ実の娘に旗本本多家の子を養子としてめあわせて、朝比奈家の家督を継がせようと企んでいたからだとされてます。

 元々万之助の生母は植木屋の娘で、縁あって祖母栄寿院の養女となっていたのを、父百助が手を出して万之助を生ませたのでした。しかしその生母は万之助を生んだあとに医者の元へ嫁に行き、百助は豪農の娘だったぎのを莫大な持参金と共に後妻として迎えていたのです。

 その継母ぎのが、家老の松田と謀って病床の百助を騙し、万之助が乱心したことにして座敷牢へ押し込め、自分の生んだ娘に婿を迎えて朝比奈家の跡を継がせようとしていたとされています。

 さらにその際万之助の妻とえを一旦実家へ戻したところ、そこでとえは弟に当たる千吉と深い仲になってしまい、さらにぎのは松田と深い仲になったという、何ともドロドロした話になっていたのでした。

 なお、江戸後期に成立した随筆集『翁草』では、継母と家老の松田が元々密通しており、万之助も薄々感づいていたところ、亡父の湯灌の場でいちゃついているのを見咎め、問いただした万之助に対し松田が無礼な返答をしたため、両人を斬ったとされています。

 また、千吉については、興奮した万之助を引き留めようとしたところを斬られてしまったとされています。

事件の処理

 万之助自害後、朝比奈家では直ちに上役に事件の報告を行い、千吉が亡くなった植村家の方へも幕府へ届け出るよう促します。

 しかし植村家では、本家筋の勝浦藩主植村家と相談の上、千吉が斬死したことを伏せ、急病として届け、養子に跡を継がせるよう幕府に願い出たのでした。

 しかし、先に朝比奈家から届けられている内容と食い違っていたため、虚偽の報告がバレてしまったのです。

 朝比奈家は当然改易となりましたが、噓の報告をした植村家もただでは済みませんでした。

 公儀を欺こうとしたということで、千吉の旗本植村家はもちろんのこと、同年(寛延4年)10月12日、何と勝浦藩主の植村家も改易となってしまったのです。

 藩主の植村恒朝は流罪となるべきところ、八代将軍吉宗の大喪の期間ということで、宗家の高取藩主植村家に預けられました。

 さらに、隠ぺい等に関係した親類などの旗本も大量に処分され、江戸で大評判となったのでした。

『徳川実紀』には勝浦藩の改易について、

「上総国勝浦の領主植村土佐守恒朝所領一万石を没収せられ、同氏出羽守家道がもとに幽閉せしめらる。これは支族千吉某をし八月二十四日外甥朝比奈万之助義豊がために斬殺されしに、恒朝おのが家のおさども申旨にまかせ、親族等とはかりて、ただ病重しとのみ披露し偽搆しかど、その事世にかくれなかりしかば糾明せられしに。なお深く諫じて公をあざむきし罪軽からず。流刑に処せらるべけれど、大喪の御程もたたざれば、等を減ぜられてかくは命ぜらるるとなり。この恒朝は・・・・後ゆるされて五十六歳にして身まかりぬ。その養子仙三郎寿朝は特旨もて新たに二千俵をたまい小普請に入られ出仕をはばかるべしと仰下され・・・」

とされ、さらに大量に関係者が処分されたことを記しています。

 なお、万之助の妻は生涯三十口の米を与えられ万之助の母を養うよう命じられています。

後日談~高取藩主植村家利の入水事件

 余談ですが、改易された勝浦藩主植村恒朝は宗家の高取藩主植村家道に預けられましたが、34年後の天明5年(1785)、家道の子で藩主の植村家利が遊女と入水自殺をしてしまったところ、幕府には病死として届け出て、兄の家長が急遽養子となって改易を免れたといわれています。

 このときは舟遊びの最中で、同席していた遊女全てを召し抱えて情報が洩れるのを防ぐなどしたとされており、過去の朝比奈家の事件での手痛い失敗が生かされたのかも。

 なお、家道が亡くなったとされるのは、朝比奈家の事件の日と同じ8月24日となっています・・・。