日本書紀の巻第九「神功皇后」の事績の中に田油津媛のことが書かれています。
皇后と夫仲哀天皇は熊襲征伐のため九州に居たのですが、仲哀天皇9年2月、筑紫香椎宮で天皇は突如崩御されます。
その後皇后は熊襲征伐を続け、翌3月の20日に羽白熊鷲という豪族を討伐、そして同3月25日、山門縣において土蜘蛛の田油津媛を誅殺し、媛の兄夏羽が兵を構えて抗しようとしましたが、媛の死を聞き逃亡したとされています。
以上が日本書紀の内容ですが、山門縣(現在の柳川市やみやま市付近)から遠く離れた福岡県田川市の若八幡神社に逃げた夏羽に関する伝承があります。
それ以来その地は「夏羽焼」⇛「夏焼」と呼ばれ、夏羽の亡霊の祟りを鎮めるために宇佐から八幡宮が勧請され、江戸時代の領主小笠原忠真が不吉な名前の夏焼を夏吉に改称したとされています。
書紀上は西暦200年頃のこととなりますが、神功皇后の熊襲征伐が事実だとすれば四世紀半ばの頃と考えられます。邪馬台国九州説では、田油津媛は卑弥呼の後裔であるとする説も多くあります。
六世紀前半に起きた「磐井の乱」の頃まで、九州の各勢力はヤマト王権の支配下に入りながらも独自に朝鮮半島と交流するなど、独特の政治体制があったと思いますが、女の首長を兄弟が補佐する体制もその一つでしょうか。
福岡県みやま市には、田油津媛を葬った蜘蛛塚(大塚)とよばれる古墳が残されています。景行天皇に討伐された首長を葬ったものともされていますが、雨が降ると古墳から血が流れ出たという言い伝えがあるそうです。事実ならば石棺等に塗布或いは入れていた朱が流れ出たものでしょう。

なお、この塚の直近には女山神籠石があります。神籠石は九州・瀬戸内に分布し、七世紀頃に築かれた古代山城の一種と考えられていますが、その更に昔からの政治や交通の要衝に築かれたであろう未だ謎の多い遺跡です。色々な想像を掻き立てられますね。



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