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板垣退助と断金隊~300年後の武田遺臣達

 今回は、明治における自由民権運動で有名な板垣退助と、武田遺臣の子孫である甲斐の士民らで組織され戊辰戦争で活躍した断金隊との関係について紹介します。

武田家宿老板垣信方と板垣退助

 板垣信方は武田二十四将、武田四天王の一人に数えられ、武田信虎信玄に仕えた武田家の宿老でしたが、天文17年(1548)村上義清との上田原の戦いで討死しています。

 信方の嫡男信憲も宿老として信玄に仕えていましたが、不行跡を理由に役を解かれ板垣家は一旦断絶します。信憲死去後、その子正信は幼少であったため旧家臣らに養育されますが、武田家滅亡後、同じ武田遺臣の孕石元成(孕石主水の子)らと共に小田原征伐に陣借りして参戦し戦功を挙げ、遠江掛川城主となった山内一豊に召し抱えられます。

 正信はその時推挙してくれた山内家家老の乾姓を名乗り、一豊の土佐移封後、子孫は代々300石の土佐藩上士として存続、幕末の当主乾退助は動乱の中で頭角を現し、戊辰戦争では東山道先鋒総督府軍参謀(土佐藩陸軍総督)として進軍します。

 乾退助は東山道の進軍途中で先祖の名である「板垣」に改姓し板垣退助正形と名乗ります。これは板垣信方の子孫であることをアピールし、制圧を目指していた甲斐の住民を味方に引き入れるためでした。

官軍の甲府占領

 慶応4年(1868)3月1,2日、江戸へ向け進軍する土佐藩、鳥取藩を主とする官軍(東山道軍)は信濃諏訪において軍議を開き、幕府天領であった甲斐への支隊進軍を決定します。これは天才的軍略家であったといわれる板垣が早期に甲府を押さえる重要性を認識していたためといわれます。

 甲府へは恭順した諏訪高島藩兵を道案内に、途中4日には積雪による悪路となったにもかかわらず進軍を急ぎ甲斐国内に入ります。

 当時甲府城代には沼津藩主水野忠敬が命じられており、実質的には水野の代理であった佐藤駿河守が務めていました。甲府城には幕府の甲府勤番ら数百名が詰めており、幕府援軍となる新選組近藤勇が隊長を務める甲陽鎮撫隊も甲府に向かっているところでした。

 甲陽鎮撫隊は江戸で兵200と大砲2門、小銃500丁を与えられていました。山間部を進むので大砲は少なく、兵より小銃の数の方が多いのは佐幕色の強い甲府で兵を集める算段であったそうです。

 しかし、甲陽鎮撫隊は近藤や土方の地元である多磨で凱旋気分で宴会をしながらゆっくりと進軍し、その間の3月4日に官軍先遣隊の軍使が佐藤駿河守らを説得し甲府城開城に成功します。

 甲陽鎮撫隊が到着したのは翌3月5日で、先に甲府城を制していた官軍が翌6日に甲府東方であった勝沼の戦いで大勝利をおさめ、近藤、土方らは敗走します。

 もし甲陽鎮撫隊がもっと早く甲府に到着し、兵を募り部隊を整えていたならば官軍の甲斐制圧は手こずった可能性があり、機を見るのに優れた板垣の戦略勝ちであったといえます。

断金隊の誕生

 甲斐に入国した土佐藩先遣隊の美正貫一郎や大石弥太郎らはいち早く
武田家の遺臣らが長年徳川家の圧政で虐げられているのはおかしい」
「これからやってくる官軍土佐藩の総督は武田家重臣板垣駿河守信方の子孫である」
「今こそ武田遺臣の誇りをもって天朝に忠義を尽くす時だ」
と、しきりに官軍に味方するよう住民に触れ回りました。

 その結果、土着していた武田遺臣の子孫や神官らが官軍の元に集まり、「断金隊」と「護国隊」が結成されました。

武田氏の遺臣に諭して王事に勤めしめ、其従軍を請う者をもって隊伍に編し、断金隊及び護国隊と称す(復古記)

 「断金」とは、「二人心を同じくすれば其の利きこと金を断つ」との故事から取った名前で、断金隊は土佐藩軍の一隊として加わり従軍することとなり、護国隊は甲斐の治安維持に従事することとなりました。

断金隊の活躍

 記録によれば、3月11日に古府中の武田信玄墓前で隊が結成され、隊士はそれぞれ一旦帰村し準備を整え、13日甲府に再結集しました。断金隊は土佐藩兵と共に江戸に向け進軍することとなり、14日に甲府を出発します。

 15日に八王子、16日に新宿、17日には土佐本隊とともに市ヶ谷の尾張藩邸(現防衛省)に入ります。ここにおいて正式に「断金隊」と命名され土佐藩に属することとなり、隊長には隊士結集に功のあった土佐藩の美正貫一郎が任命され、隊旗も授けられたのです。

 隊員は当初14,5人であったのが順次加わり、最終的には甲斐出身約20人を中心とした約40人、そのほか人夫も数十人いたとされています。

 隊員にはズボン、マントル、ミニエー銃が貸与され、月3両の給金を受け、まずは市ヶ谷で訓練を受けることとなりました。

 訓練を受ける傍ら、米倉幸七ら一部の隊士は奥州方面への敵情偵察の任を受け出発したほか、江戸市中探索等の任務も与えられています。

 約1か月間の訓練などを経た4月17日、土佐藩兵とともに旧幕府軍討伐のため宇都宮へ出陣します。

 当初断金隊に与えられた任務は主に敵情偵察でしたが、やがて戦闘にも積極的に加わっていきます。

 日光近くで幕臣大鳥圭介、会津藩山川大蔵らと戦った今市の戦いでは、断金隊は敵軍の背後を取って敵を敗走させ勝利に貢献し板垣から激賞されます。

 その後今市付近で続いた戦いでも、敵の陣を焼き落としたり、各地で大砲や弾薬を大量に鹵獲して持ち帰るなど活躍を続け、板垣は大いに喜び酒肴を贈り感状も与えています。

 その後も断金隊は板垣率いる土佐藩本隊と行動を共にし、6月にも鹿島、白川、棚倉などで戦闘を重ね、土佐本軍にとってもなくてはならない存在となっていきます。

 そして、7月26日には美正貫一郎の仲介により三春藩が帰順し、三春藩の尊王派河野広中らも断金隊に加わっています。

 ところが、翌7月27日の阿武隈川渡河作戦途中、隊長美正貫一郎が渡河途中で狙撃され戦死します。25歳であった美正は隊員や周囲の人から信望が厚かったそうです。

 美正を失った断金隊でしたが、休む間もなく続く二本松城攻略戦にも参戦し、8月21日の会津へ入る母成峠の戦いでは早朝から夜間まで終日激戦を繰り広げて勝利に貢献、猪苗代、十六橋と戦いを続け、23日には会津城下に達します。

 会津若松城包囲戦でも突出してくる会津軍と入り乱れて斬り合うなど交戦を続け、9月23日の会津藩降伏により断金隊の戦いもようやく終わったのでした。

その後の断金隊

 戦後処理後、10月5日に会津を出立し江戸への帰路につきます。江戸に戻った断金隊士達は板垣らの尽力により、11月15日に土佐藩から新政府軍務局に引き渡され御親兵となります。

 その後、役所や病院などの警備に従事していましたが、翌明治2年3月12日に任務を解かれることとなってしまいます。

 隊士らは解任により甲斐等へ帰郷することとなったのですが、土佐藩軍監であった谷干城が取りなして、職を失うことになった断金隊に対して、新政府から各人に感状と慰労金80両が下され、隊士には帯刀身分でなかった者も含めて終身帯刀が認められました。

 甲斐に戻った隊士らは、帰農したり、商売を始めたり、教育者になったりとそれぞれの道を歩むこととなったのですが、脱隊騒動を起こした長州奇兵隊に比べると恵まれていたのではないでしょうか。

 明治5年、板垣は甲斐恵林寺で行われた武田信玄の第三百回忌法要に、板垣信方の嫡流子孫として招かれ出席しています。

断金隊に関する逸話

臼井清左衛門の死

 臼井清左衛門は甲斐の農民でしたが、江戸、八王子などへ行商に行く傍ら、天然理心流の剣を学んで目録を取り、身を立てようと当初幕府誠忠隊に属していました。ところが同郷の士達が断金隊として土佐藩に属して江戸に来たのを知って、大義は官軍にありと断金隊に入隊したのです。
 清左衛門は誠忠隊に属していた経歴を利用し、間者として誠忠隊に戻って敵情を探った後に今市に居た土佐藩隊に報告します。しかし、更に情報を探ろうと誠忠隊に戻ったまま帰ってこず、土佐藩が進軍した先の道端で惨殺された清左衛門が横たわっているのが発見されたのです。
 清左衛門の遺族には、祭祀料80両と感状が下賜され、土佐藩から遺子力太郎に3人扶持が与えられました。

夫を追いかけた妻

 甲州からは度々断金隊への陣中見舞いに訪れる者があったそうですが、土佐藩士の記録の中には、

8月21日、会津のある村で24,5歳の女が半纏股引の旅姿で兵達に交じって休憩しており、訳を尋ねると、土佐藩に召し抱えられた甲州武田浪士の夫が奥州にて討死したと聞き及び、墓参のために旅してきたが、夫は存命であると聞いて喜んで会津まで兵達と一緒に来たという
といったものもあります。

自由民権運動で板垣と共に活躍した河野広中

 先述のとおり三春藩で断金隊に加わった河野広中は、明治の世で板垣退助と同調して自由民権運動で活躍、後に衆議院議長、農商務大臣など務めています。
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参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
『土佐史談』(土佐史談会)
『甲斐史学』(甲斐史学会)