慶長5年(1600)に起きた東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)が戦った関ヶ原の戦いは、東軍の勝利で半日で決着がつきました。関ヶ原本戦では西軍から東軍に寝返った武将がおり、東軍の勝利に大きな影響を与えました。ここでは、寝返った武将のその後を紹介します。
赤座直保
越前で2万石を領し、関ヶ原の戦いでは600の兵を率いて西軍の大谷吉継隊に属していましたが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、これに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷隊を壊滅に追い込みます。
しかし、戦後は恩賞を与えられなかったどころか、所領を没収されてしまいます。土壇場での裏切り者は信用されなかったのでしょうか。
その後は京に移り住みますが、しばらくして前田利長の家臣となって加賀へ赴き、松任城代として7000石を与えられましたが、慶長11年(1606)、川の氾濫の検分中に落馬して溺死しています。
子孫は、永原と改姓し、加賀藩重臣(人持組)として幕末まで存続しています。
小川祐忠
伊予で7万石を領し、関ヶ原の戦いでは2100の兵を率いて西軍に属していましたが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、これに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保らと共に東軍に寝返り、平塚為広を討ち取ります。さらに、佐和山城攻めでも活躍しましたが、戦後は恩賞を与えられなかったどころか、所領を没収されます。
改易の理由は領内で悪政を敷いていた、嫡子の祐滋が石田三成と昵懇だったためともいわれています。
脇坂安治
関ヶ原の戦い前に家康に味方する書状を送っていましたが、石田三成が挙兵したため、大坂にいた安治はやむなく西軍に付いたとされています。
本戦では西軍の一員として、約1000の兵を率いて、東軍に内通の風聞があった小早川秀秋に備えて、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らと共に配置されていました。小早川隊が大谷吉継隊を攻撃すると、他の3将と共に東軍に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させました。
戦後処理で元綱は減封、直保と祐忠は改易の処分を受けましたが、事前に家康に書状を送っていた脇坂家は処分を受けずに所領を安堵されたのです。
子孫は江戸時代播磨龍野藩5万3000石の藩主として老中などを輩出し、明治に至っています。
小早川秀秋
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室である北政所の兄木下家定の子です。そのため、一時期は秀吉の養子にもなったほど豊臣家とは親密な関係にありました。
しかし、秀吉に嫡男の秀頼が誕生したため、小早川家の養子となり小早川秀秋となります。
関ヶ原の戦いで、秀秋は西軍として1万5000の兵を率いて、要衝である松尾山に陣を置きます。西軍有利に戦いが進む中、秀秋は傍観していました。しかし、最終的に松尾山を下り西軍の大谷吉継に襲いかかり、大谷隊を壊滅させて吉継は戦死します。
これにより、西軍は総崩れとなり、東軍勝利の立役者になったのです。
関ヶ原の戦い後、秀秋は宇喜多秀家が領有していた備前岡山で55万石を与えられます。
しかし、秀秋は関ヶ原の戦い後、僅か2年後に急死し、その生涯を閉じます。裏切り者としての周囲からの蔑みと罪悪感から酒浸りになり体を壊したともいわれています。
秀秋には後継者がいなかったため、小早川家は秀秋の死をもって断絶しました。
朽木元綱
朽木元綱は、元亀元年(1570)の金ヶ崎撤退戦で、織田信長を助けた武将です。関ヶ原の戦い当時は、2万石の大名で約600の兵で大谷吉継に従っていましたが、小早川秀秋の裏切りと共に東軍に寝返っています。
しかし、元綱は事前に東軍に内通する意思を鮮明にしていなかったため、戦後に約9,600石に減封されます。
のちに、末子の稙綱が江戸幕府3代将軍徳川家光に仕え、兄とは別に領地を与えられ大名となり、若年寄までのぼりつめています。
吉川広家
吉川広家は、毛利元就の次男吉川元春の三男です。兄元長の死去に伴い、吉川家の家督を継ぎました。関ヶ原の戦いでは、毛利家の当主輝元が西軍の総大将であったため、広家も西軍として行動するも、東軍と水面下で交渉を行っていました。
そして、南宮山の毛利勢を参戦させなかったことで東軍勝利に貢献します。ところが、家康は輝元が西軍の中心人物であったことなどを理由に、所領安堵の約束を反故にして毛利家は、120万石から30万石に大減封となったのです。
広家は、周防国岩国3万石領主となりますが、支藩ではなくあくまでも毛利家の家臣として扱われます。これは、東軍に内応していて毛利が戦闘に参加出来なかったことに対しての毛利家内部の処置といわれています。
晩年は、岩国領の開発に尽力し、現在の岩国市の基礎を築きました。
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