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小田原北条家臣のその後~徳川家に仕えた北条遺臣と子孫たち

 豊臣秀吉の小田原征伐により、北条氏政、氏照兄弟は切腹、氏直は追放され小田原北条家は滅びましたが、その後徳川家臣となって存続した主な北条一族、北条遺臣(旧臣)について紹介します。

北条氏規の子孫~狭山藩主家

 北条氏康の四男北条氏規の家系です。氏規は小田原征伐の際には韮山城の守備を担当し、4万の豊臣方(総大将は織田信雄)を相手に3600余とされる寡兵で4か月以上の間抗戦するという善戦ぶりを見せましたが、最終的には家康と黒田官兵衛の説得を受けて開城しています。

 戦後は北条氏直に従って高野山で蟄居しましたが、翌年には秀吉に許されて河内国に2000石、文禄3年(1594)には同国河内郡に7000石を与えられて狭山城主となっています。

 なお、氏直も同時に許され1万石を与えられましたが、すぐに病死したためその遺領のうち4000石を氏直の養子となった氏規の長男・氏盛が継いでいます。

 氏規は慶長5年(1600)に56歳で病死し、氏盛による継承が認められ、それまでの領地と合わせ1万1000石となって北条家は大名として復活し、子孫は、狭山藩藩主として明治維新まで存続しています。

 武田、今川、北条のうち、武田、今川は高家として存続していますので、小藩ながら大名として存続したのは北条だけですね(^_^)

北条氏規と徳川家康の関係はこちら⇓⇓

孕石主水と家康~家康の逆恨み!?
天正9年(1581年)、家康が武田方の高天神城を攻略した際、敵方の武将のうち、孕石主水という武将だけ切腹させています。逸話では、主水は家康の今川人質時代に、家康の屋敷の隣に住んでいたそうです。主水の子孫まで含めて紹介します。

北条氏勝の子孫~北条流兵法の祖

 北条氏勝は北条綱成の嫡男北条氏繁の次男で、母は北条氏康の娘ですので、氏康と綱成の孫に当たります。

 小田原征伐の際は伊豆山中城での戦いに敗れた後、本拠の相模玉縄城で籠城しましたが、徳川軍に降伏し開城しています。

 その後家康に下総岩富1万石を与えられて家臣となります。慶長16年(1611)に53歳で死去し家督は保科正直の子で家康の甥に当たる氏重が養子となり、掛川3万石の大名とまでなりましたが無嗣改易となっています。

 なお、氏勝の弟繁広の子氏長が禄高500俵の旗本として取り立てられ、承応2年(1653)従五位下安房守、明暦元年(1655)には大目付となるなど累進し、最終的に2000石の大身旗本となっています。氏長は北条流兵法の祖の軍学者として有名です。

成田氏長の子孫

 武蔵忍城主であった成田氏長が小田原征伐後に蒲生氏郷に預けられ、後に秀吉から下野国烏山2万石を与えられ大名に列しています。

 氏長の死後は弟泰親が継ぎますが、関ヶ原の戦いで徳川に付き大名として存続します。泰親の死後は次男の泰之が継ぎますが、跡目問題で改易となっています。

 映画「のぼうの城」で野村萬斎さんが演じた成田長親(氏長の従兄弟)は後に氏長と袂を分かち子孫は尾張徳川家に仕え、榮倉奈々さんが演じた甲斐姫(氏長の娘)は秀吉の側室となった後の消息は不明ですが、秀頼の娘天秀尼に仕えたとの説もあります。

中山照守

 父家範とともに北条氏照に仕えていました。小田原征伐における八王子城の戦いで父家範は討死したため、照守は武蔵に潜伏していましたが、父の最期に感銘した徳川家康に弟・中山信吉とともに召抱えられ、300石を与えられて徳川秀忠の使番に任じられます。

 慶長5年(1600)の関ヶ原に向かう上田城の戦いでは上田七本槍に数えられる働きをするものの、軍律違反であり叱責を受けています。

 照守は高麗八条流馬術の使い手であったため、秀忠に馬術を教授し、のちに3代将軍徳川家光にも手ほどきしたといわれています。

 その後も旗本として加増を続け、寛永9年(1632)には鑓奉行となり、最終的に3500石の大身旗本となり、子孫の中山勘解由は火付盗賊改の「鬼勘解由」として活躍しています。

中山信吉~水戸藩附家老

 兄照守とともに家康に仕えるようになり、小姓となって後に1500石を与えられます。慶長12年(1607)、家康の十一男頼房が常陸国下妻10万石の大名となるのに伴い家老として付けられ、6500石を与えられます。

 慶長14年(1609)、頼房の水戸転封に伴って加増され、計1万5000石となります。

 その後も水戸徳川家の重臣として活躍し、水戸藩主の後継として光圀を将軍家光に推挙したと伝えられています。

 子孫は代々水戸徳川家の附家老として仕えましたが、明治維新時には領地の常陸松岡での立藩が認められ、廃藩置県までのわずかな間ですが松岡藩主として大名となっています。

小笠原長房

 母は北条為昌(北条氏綱の三男)の娘であるため、氏綱の曾孫になります。

 小田原征伐の際には小田原城に籠城して氏直近習の士二十余人を指揮し、落城後は氏直に従って父とともに高野山に入ります。

 天正19年(1591)に氏直が死亡した後、文禄元年(1592)に京都において父康広とともに徳川家康に拝謁して旗本となり武蔵国多摩郡に350石を与えられます。

 元和9年(1623)に大番組頭となり、子孫は780石の旗本として存続しています。

大道寺直次

 直次は、北条家重臣大道寺政繁の四男で母は遠山綱景の娘です。小田原征伐で父が自刃し、後北条氏が滅亡すると、母方の姓を名乗り、遠山長右衛門と改名して黒田如水の家臣となります。

 その後、豊臣秀次の家臣となりますが、秀次が秀吉に自刃させられた後は、福島正則の家臣となり、関ヶ原の戦いでの岐阜城攻めなどで活躍しています。

 正則が改易されるとしばらくは浪人しますが、後に徳川家光に招聘され甲斐国で1000石を与えられ旗本に加えられます。このとき、姓を大道寺に戻し、子孫は旗本として存続しています。

板部岡江雪斎

 北条氏政のもとで外交関係で活躍した板部岡江雪斎は、小田原征伐後、秀吉から約束どおり北条父子を上洛させなかったことに関し、「氏政の考えかお前の奸計か」と詰問され、

「北条父子に反逆の心なし。興亡は天なり。ただし天下の大軍を引き受けて日を重ね籠城せしは面目というべし。今はただそれがしの首を刎ねられんことを待つのみ」

と答えたところ秀吉に許されて御伽衆になったとされています。

 その後姓を岡野に改め、長男の岡野房恒とともに家康に仕えており、慶長14年(1609)に亡くなっています。

 房恒は武蔵国長津田(現横浜市緑区長津田)に所領を与えられ、その他の一族とともに代々徳川旗本として存続しています。

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