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本多正信・正純父子と大久保忠世・忠隣父子~徳川功臣の権力争い

 徳川幕府成立の功臣といえば徳川四天王(酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政)が有名ですが、同様に中心となって活躍したのが本多家(本多正信本多正純)と大久保家(大久保忠世(ただよ)、大久保忠隣(ただちか))です。四天王や大久保家ら武功派が活躍したのち、徳川家の中枢は本多家ら文治派が担うようになり、その過程で本多家と大久保家の熾烈な権力争いが繰り広げられました。

大久保忠世と本多正信

 大久保忠世と本多正信は双方とも徳川譜代の臣であり、特に忠世は三方ヶ原の戦いや長篠の戦いをはじめとした数々の戦で武功をあげており(長篠の戦いでは信長から名指しで賞賛されています)人望も厚かったようです。

 一方正信は、三河一向一揆に加担して徳川家を出奔したのは有名ですが、帰参した際は忠世の口添えがあったといわれています。このころの大久保家と本多家は確執どころか良好な関係ですね。

本多正信と大久保忠隣

 大久保忠世は文禄3年(1593)に死去し、大久保家は嫡男の忠隣が継ぎました。忠隣も若い時から父と共に戦場を駆け巡って武功を挙げ、秀忠付きの家老として父を継いで小田原城主を任せられます。

 本多正信もまた秀忠に近仕しており、共に行政官僚としても秀忠を支えますが、少しずつ雲行きが怪しくなってきます。

関ヶ原の戦いでの上田城攻め

 関ヶ原の戦いでは、正信も忠隣も秀忠軍として中山道を通り関ヶ原に向けて進軍していましたが、途中で真田昌幸が立ちはだかります。昌幸の上田城攻めに手こずったために関ヶ原の戦いに秀忠軍が遅参するという大失態を犯してしまうのです。

 戦後、激怒する家康から秀忠を守るため、正信は牧野康成や忠隣の家臣らが抜け駆けで戦ったせいだと申し立て、牧野康成は納得せず出奔し、忠隣の家臣らは切腹することとなります。忠隣も秀忠を守るためと分かっていたので、これには従ったのですが・・・

正信と忠隣の政治的対立

 家康が将軍職を秀忠に譲って駿府に移ると駿府と江戸での二元政治が展開されますが、江戸では正信と忠隣が秀忠の側近として、駿府では正信の嫡男正純が家康の側近として政治を動かしていきます。

 正信は家康の絶対的信頼を背景に、忠隣は武功派の重鎮として互いに譲らず、次第に反目を強めていきます。

 大久保家や徳川四天王は、いくら正信が家康に気に入られようと忠臣として武功を挙げてきた自負があります。大した武功もなく知略のみで側近にのし上がった正信のことが面白いはずがありません。本多忠勝は「佐渡(正信)の腰抜け」と、榊原康政は「算盤勘定しか知らぬ腸腐れ者」と軽蔑していました。

 四天王ら他の武功派は次第に政治の中枢から遠ざけられていますが、行政手腕もあった忠隣は政治の中枢に残ったため、直接本多父子との対立を深めていきます。

 慶長16年(1611)に忠隣嫡男の忠常が病死すると、信望の厚かった忠隣の元には多くの弔問が訪れますが、正信らはその影響力を警戒していたようです。

 正純側近であった岡本大八が肥前の大名有馬晴信をペテンにかけたとして処刑された「岡本大八事件」や、大久保忠隣の腹心であった大久保長安一族が不正蓄財により処罰された「大久保長安事件」についても、両家の勢力争いが一因ともいわれています。

大久保長安事件~伝説と野望の真相!?
大久保長安の生涯や事件に関しては昔から様々な逸話が語られていますので、伝説の類も含めて紹介します。

 忠隣の運命を決定づけたのは豊臣氏問題です。正信は大阪の豊臣氏を滅ぼすことが徳川政権安定の絶対条件と考えており、一方の忠隣は豊臣氏に同情的であったようで、武力衝突には消極的立場でした。

 家康は正信の考えに同調しており、老い先短く一刻も早く豊臣氏を滅ぼしたい家康や正信にとって、忠隣は自身が気付かないうちに障害になっていたのです。

大久保忠隣の改易

 慶長19年(1614)、キリシタン禁圧のため小田原から京都に出張中であった忠隣は同所でいきなり改易を言い渡されます。京都所司代の板倉勝重がこのことを伝達した際、忠隣は将棋をさしており、取り乱すこともなく冷静に命に服し、小田原に戻ることなく近江の井伊直孝の元に配流されます。

 正信は忠隣の父忠世に恩があるため、忠隣の改易に正信は関与していないとの説もありますが、家康や本多父子にとって忠隣が不安要素であったことは間違いないでしょう。

 忠隣は天海僧正を通じて家康に弁明しますが、訴えは無視され徳川家は大阪の陣へと・・・

 近江では丁重に扱われますが慎ましい生活を送っていたようです。
家康死去後、井伊直孝が忠隣に赦免願いの取次ぎを打診しますが、忠隣は今更赦免されたとしても秀忠が家康の誤りを追認することとなってしまい将軍の権威に傷がつくとして、打診を断りそのまま寛永5年(1628)に近江で死去します。

本多正純の改易~宇都宮釣り天井事件

 正信も家康の後を追うように亡くなりますが、忠隣の失脚によって正純のライバルはいなくなります。

 正純は駿府から江戸に移り、秀忠政権下でも勢力を誇りますが、敵を作りやすい性格だったようで、周囲との折り合いも悪くなっていったようです・・・

 そのような中、忠隣嫡男の亡くなった忠常の義母(妻の母)に当たる加納殿(家康の長女亀姫)も、大久保家の改易や宇都宮から追い出されたことで正純に対する恨みを募らせており、元和8年(1622)宇都宮釣り天井事件が勃発し正純も突如改易となります。

本多正純~宇都宮釣り天井事件
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 忠隣が京都出張中に改易を告げられたのと同様、正純は最上家改易のため出羽に出張中に改易を告げられたのです。

 正純改易時忠隣はまだ近江で存命しており、正純の失脚を知りどのような気持ちだったのでしょうか。ちなみに大久保一族の長老的存在であった大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)は喝采を挙げて喜んだと伝わります。
大久保彦左衛門の妻は・・⇓⇓

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 幕府創立を支えた大久保家と本多家は勢力の絶頂期に双方改易という衝撃の結末を迎えたのでした。

その後の大久保家と本多家

 大久保家は忠隣改易後も忠常の嫡男忠職が減封されながら当主として存続を許されており、忠職は加納藩主や唐津藩主などを歴任します。

 忠職の後は従兄弟の忠朝(忠職と同じく忠隣の孫)が継ぎますが、この忠朝が老中となり、更に貞享3年(1686)に唐津から70年ぶりに祖父の旧領小田原へと転封となって大久保家は完全復活を果たしています。

 その後大久保家は明治まで代々小田原藩主として存続します。

 一方の本多家については、正純の弟本多政重の家系が加賀前田家の重臣として続き、正信の弟正重の家系も譜代大名として幕末まで続いています。

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